今日、『有田』 = 『陶磁器』 というイメージが定着したことで
『有田』の窯業の歴史が、磁石鉱発見以降のことの様に思えてきますが
実際には、磁石鉱発見以前より、この周辺では窯業が盛んに行われていたようです。
もちろん、その当時磁石は発見されていませんので、『陶磁器』生産は不可能ですので、今の『唐津焼(古唐津 』の様な、『陶器(土物)』の生産が中心で行われていたようです。
この様な下地があって、今日の『有田』の『陶磁器』の歴史があると言えるのかもしれません。
そして、もう1つのきっかけとも言えるものに、『豊臣秀吉の朝鮮出兵』があります。
これにより、肥前地区にその拠点が置かれ、各地の諸大名はもとより、京、大阪の豪商や茶人らの往来が繁くなることで、商的基盤ができたことと
出兵から帰国の際に、朝鮮から連れ帰った数多くの工人陶工達の活躍が、今日の肥前皿山の礎となったことは間違いありません。
そうして、朝鮮より帰化した陶工達は、肥前佐賀鍋島領内や、肥前平戸松浦領内、薩摩島津領内などに住みつき、その地区の窯業発展へと寄与していきました。
そして1605年前後、
ついに『李参平』によって磁石鉱が発見されます
『日本磁器の夜明け』です
初期伊万里染付松梅紋瓶
磁器創成期の製品(初期伊万里)は
肥前佐賀領内に帰化した『 李朝系陶工 』を中心にして、有田に点在する古窯(中でも天狗谷窯跡は有名)で焼かれました。
創業期当時の製品は李朝系磁器の形状や絵模様を強く反映していました。
初期伊万里染付吹墨手兎図平皿
その後、1640年前後になると
次第に中国明朝時代作品の影響を受け始めます
(長崎を中心とした、オランダとの交易の影響も多大でした)
絵模様も中国染付磁器を模倣した製品が多く作られるようになり、商品性が加味されるようになります。
色絵草花紋花鳥図瓶
中国染付磁器の模倣からスタートした作陶は
中国・万暦赤絵へのあこがれを強くし
1643年前後、酒井田喜三右衛門によってついに赤絵付けを成功させます(初代・柿右衛門の誕生です)。
当時の肥前佐賀領内の窯は、全て鍋島藩によって管理・保護されていました。
窯場を指定し、御用窯を設け、藩外への技術流出を避けるため、職種を分業し、職種ごとに名大札(免許)を交付したり、番所を置いたりしていました。
現在の「赤絵町」も1672年に設置された、色絵付、赤絵業者の為の特定区域でした。
古伊万里二果牡丹赤玉紋鉢
李朝や中国明朝の作品の模倣品を中心にした、初期の「古伊万里」の作陶から
その後、オランダ(東印度会社)との貿易の拡大を背景に、「献上手古伊万里」などの、豪華絢爛たる古伊万里最盛期(1685〜1735年頃)を迎えることになります。
色絵双鳥松竹梅紋輪花皿
中国明朝作品の模倣の延長で発展した「古伊万里様式」に対し、その一方で、「柿右衛門窯」を中心にして、日本的に和様化された色絵磁器の製作も行われ、四代、五代前後には、「柿右衛門様式」の絵模様構図が確立されていきます。
色鍋島桜に筏の大鉢
また、鍋島藩御用窯では、蒔絵や染織品などとの調和を図った「大名好み」を意識して、青磁、染付、色絵など純日本風の独創的様式を作り上げて行きます。
そして、その様式は「色鍋島」とされ、先述の「赤絵町」で完成され、その後、藩窯移転に伴い 伊万里「大川内山」にて製作されていくことになります。
「色鍋島」については、後述の
『伊万里』のコーナーで取り上げています。
このようにして、『有田焼』の三大様式
『古伊万里』『柿右衛門』『色鍋島』が確立された訳です。
その後、根強い海外との貿易を背景に、海外の窯にも影響を与えながら、『有田焼』は発展を続け、「幕府崩壊」「廃藩置県」などを経て、時代に合わせて、作風、商域を変えながら今日の『有田焼』へと引き継がれてきました。
そして今日の有田の窯元は、「業務用食器」の生産を主に、手描きを中心とした染付、染錦など多種多様なデザイン、形状で、肥前皿山地区の中では比較的高級な商品を生産しています。(受注生産型です)
ただ、バブル崩壊後、業務用食器の需要が落ちている背景から、近年は家庭向き食器、雑貨の生産にも力を入れる窯元が増えてきています。