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和食器通販 菖蒲の隠者 TOP >> shop & town >> 肥前有田皿山地区の窯場の歴史

日本で初めて、『有田』の泉山の地に磁石鉱が発見され、約400年が経ちました
もちろん、その間に『有田』の町は『陶磁器の町』として国際的にも広く知られるようになり
今では、陶磁器無くしてこの町は語れないほどの、主産業となりました。

そして、その『有田』から周辺の町に目を移すと
そこにもまた、『窯業の町』として営む町がいくつかあります
佐賀県と長崎県の県境にまたがる『肥前皿山地区』は、同じ『陶磁器』を主産業にしながらも
地区それぞれに、独自の特色を出しながら、お互いに刺激し合い、切磋琢磨し発展してきました

このコーナーでは、

    ■ 有 田    ■ 伊 万 里    ■ 三 川 内    ■ 波 佐 見

この『 肥前皿山地区 』それぞれの、(陶磁器を中心とした)歴史と特色についてご紹介します。




A R I T A
有 田 焼 の 歴 史



今日、『有田』 = 『陶磁器』 というイメージが定着したことで
『有田』の窯業の歴史が、磁石鉱発見以降のことの様に思えてきますが
実際には、磁石鉱発見以前より、この周辺では窯業が盛んに行われていたようです。
もちろん、その当時磁石は発見されていませんので、『陶磁器』生産は不可能ですので、今の『唐津焼(古唐津 』の様な、『陶器(土物)』の生産が中心で行われていたようです。
この様な下地があって、今日の『有田』の『陶磁器』の歴史があると言えるのかもしれません。

そして、もう1つのきっかけとも言えるものに、『豊臣秀吉の朝鮮出兵』があります。
これにより、肥前地区にその拠点が置かれ、各地の諸大名はもとより、京、大阪の豪商や茶人らの往来が繁くなることで、商的基盤ができたことと
出兵から帰国の際に、朝鮮から連れ帰った数多くの工人陶工達の活躍が、今日の肥前皿山の礎となったことは間違いありません。
そうして、朝鮮より帰化した陶工達は、肥前佐賀鍋島領内や、肥前平戸松浦領内、薩摩島津領内などに住みつき、その地区の窯業発展へと寄与していきました。

そして1605年前後、
ついに『李参平』によって磁石鉱が発見されます 『日本磁器の夜明け』です

初期伊万里染付松梅紋瓶

初期伊万里染付松梅紋瓶

磁器創成期の製品(初期伊万里)は
肥前佐賀領内に帰化した『 李朝系陶工 』を中心にして、有田に点在する古窯(中でも天狗谷窯跡は有名)で焼かれました。

創業期当時の製品は李朝系磁器の形状や絵模様を強く反映していました。








初期伊万里染付吹墨手兎図平皿


初期伊万里染付吹墨手兎図平皿

その後、1640年前後になると
次第に中国明朝時代作品の影響を受け始めます
(長崎を中心とした、オランダとの交易の影響も多大でした)

絵模様も中国染付磁器を模倣した製品が多く作られるようになり、商品性が加味されるようになります。


色絵草花紋花鳥図瓶


色絵草花紋花鳥図瓶

中国染付磁器の模倣からスタートした作陶は
中国・万暦赤絵へのあこがれを強くし
1643年前後、酒井田喜三右衛門によってついに赤絵付けを成功させます(初代・柿右衛門の誕生です)。

当時の肥前佐賀領内の窯は、全て鍋島藩によって管理・保護されていました。
窯場を指定し、御用窯を設け、藩外への技術流出を避けるため、職種を分業し、職種ごとに名大札(免許)を交付したり、番所を置いたりしていました。
現在の「赤絵町」も1672年に設置された、色絵付、赤絵業者の為の特定区域でした。




古伊万里二果牡丹赤玉紋鉢


古伊万里二果牡丹赤玉紋鉢

李朝や中国明朝の作品の模倣品を中心にした、初期の「古伊万里」の作陶から
その後、オランダ(東印度会社)との貿易の拡大を背景に、「献上手古伊万里」などの、豪華絢爛たる古伊万里最盛期(1685〜1735年頃)を迎えることになります。


色絵双鳥松竹梅紋輪花皿


色絵双鳥松竹梅紋輪花皿

中国明朝作品の模倣の延長で発展した「古伊万里様式」に対し、その一方で、「柿右衛門窯」を中心にして、日本的に和様化された色絵磁器の製作も行われ、四代、五代前後には、「柿右衛門様式」の絵模様構図が確立されていきます。




色鍋島桜に筏の大鉢


色鍋島桜に筏の大鉢

また、鍋島藩御用窯では、蒔絵や染織品などとの調和を図った「大名好み」を意識して、青磁、染付、色絵など純日本風の独創的様式を作り上げて行きます。

そして、その様式は「色鍋島」とされ、先述の「赤絵町」で完成され、その後、藩窯移転に伴い 伊万里「大川内山」にて製作されていくことになります。

「色鍋島」については、後述の『伊万里』のコーナーで取り上げています。

このようにして、『有田焼』の三大様式『古伊万里』『柿右衛門』『色鍋島』が確立された訳です。
その後、根強い海外との貿易を背景に、海外の窯にも影響を与えながら、『有田焼』は発展を続け、「幕府崩壊」「廃藩置県」などを経て、時代に合わせて、作風、商域を変えながら今日の『有田焼』へと引き継がれてきました。


そして今日の有田の窯元は、「業務用食器」の生産を主に、手描きを中心とした染付、染錦など多種多様なデザイン、形状で、肥前皿山地区の中では比較的高級な商品を生産しています。(受注生産型です)
ただ、バブル崩壊後、業務用食器の需要が落ちている背景から、近年は家庭向き食器、雑貨の生産にも力を入れる窯元が増えてきています。




I M A R I
伊 万 里 焼 の 歴 史



『伊万里』の歴史はと言いますと、その殆どは『有田』と重なってしまいます。
そう、『伊万里』 = 『有田』と言ってもいいぐらいなのです。
よく『伊万里(焼)』と『有田(焼)』の違いを聞かれることがありますが、どう回答すれば良いか、困ってしまうことがあります。
時代背景によっても、答え方が違ってきますし
「同じと言えば同じ」「違うと言えば違う」 そんな感じでしょうか

『有田』のコーナーでも述べましたように、
陶磁器創成期の「肥前佐賀領内」の窯は、『鍋島藩』に管理、保護されていました
その窯は、「有田(内山)」「西有田(外山)」「伊万里(大川内山)」「武雄」、と点在していました
そして、移窯されることも度々で、「伊万里(大川内山)」の御用窯も3度移窯されていますので、移窯する度に、「有田」と「伊万里」で似たような製品が作られていもおかしくは有りませんし、現に、「大川内山」を代表する『色鍋島』は、その最初の完成は「有田」の「赤絵町」とされていることからも、理解できます。
(有田の「赤絵町」に窯を構える「今右衛門窯」は「色鍋島」様式を代表する窯です)

「伊万里」といえば、その代表的な窯場は『大川内山』になります。
現在でも、伊万里の窯の殆どは、この『大川内山』にあるか、そこから場所を移して窯を作ったかだと思います
(例外として、伊万里には「陶磁器」生産以外に、唐津系の「陶器(土物)」(茶陶など)を作る窯元も多くあります、その流れは唐津からの流れも多いと思いますが、ここでは「陶磁器」の歴史を中心に述べていますので省かせて頂きます)

色鍋島桃図の大鉢
色鍋島桃図の大鉢

で、その「大川内山」で鍋島藩の御用窯として主に生産されていたのが、 『色鍋島』 です。
模倣をベースとした「古伊万里」様式とは違い、純日本風(鍋島風ともいえる)の独創的な様式を作り出しました。
その特徴は、繊細(緻密)な線描きと、色使いにあります・・
それは、手描きとは思えないほどに綺麗すぎて、一瞬印刷なのかと思わせるほどです。






色鍋島櫛目(くしめ)模様


色鍋島櫛目(くしめ)模様

そして、『色鍋島』のもう1つの特徴が、高台に施された、「櫛目(くしめ)模様」です。
それは、他様式の製品と区別し、それが「鍋島」の製品であることを証明する「特許証」みたいなものです。
そして、その形状、サイズ、にも厳密に決まりごとが定めてあったということです。



now printing

また、この「大川内山」で、『色鍋島』とならぶ伝統工芸に「大川内青磁」があり、その独特な青磁の色合いが魅力的です。
現在でも大川内山の天然青磁鉱だけを使った「大川内青磁」も作られていますが、大変高価なものになるために、今では化学原料と合わせて「大川内青磁」の色合いを出した「大川内青磁風」の作品が主流となっているようです。

現在の「大川内山」は、鍋島藩の関所跡も再現されるなど、その町並みも整備され、今では観光名所となっています。

窯元は、やはり『色鍋島』の流れを汲む窯元が多く、今でも伝統に沿った「鍋島風」の作品を製作する窯が多くあります。 中でも高台に「櫛目模様」を入れられる作品は、伝統に沿った『色鍋島』だけとなっていますので、やはり高価なものになりますので、今では一般客が購入しやすいように、家庭向きの「鍋島風」や「大川内青磁風」の食器も多く作られています。





M I K A W A T I
三 川 内 焼 の 歴 史



『三川内』(みかわち)は長崎県佐世保市の東に位置する町で、佐賀県との県境
つまり『有田』と県を跨いで隣町になります。
地理的に見ると、『有田』と『伊万里』の関係に似ていても良さそうなのですが、同じ「肥前国」(昔は佐賀県と長崎県、両県で「肥前」とされていました)にありながら「藩」が違うだけで(鍋島藩と平戸松浦藩)、「陶磁器」の歴史や製品の特徴も随分違ったものになっています。

まずはその歴史ですが、窯業発展のきっかけは、やはり『有田』と同じで、「豊臣秀吉の朝鮮出兵」を機に朝鮮の陶工達が、平戸松浦領内に多数帰化したことにあります。
創業当初は、平戸領内の御用窯で窯入れをしましたが、その後良質の陶土を求めて平戸を離れ、現在の『三川内』の地にたどり着きました。

そうして、正式に藩の御用窯をこの『三川内』の地に設けた平戸松浦藩は、「鍋島藩」同様に陶磁器生産の技術向上や情報流出を防ぐために、皿山の代官(責任者)や役所などを設け、その地を「木原山」と「江永山」に設置しました(1643年頃)、
この「三川内山」「木原山」「江永山」を「三川内三皿山」といいます。
(現在もこの3箇所に「窯元」「商社」が集中しているのはこのためです)

このようにして、『三川内焼』は藩窯としての手厚い庇護のもとに、採算を考えずひたすら高級品を求め作り続けました(「鍋島藩」が「色鍋島」を作らせたのと同じ様に)。
そして、その代表的な作品が、『染付』 (白磁に呉須(ごす)と呼ばれる藍色の染料で図柄を描いたもの) です

献上唐子
献上唐子(現在の作です)

中でも、唐子絵 (松の木の下で無心に蝶とたわむれる唐の子供が描かれている) は、平戸藩御用窯の指定図柄とされ、三川内以外の窯では焼くことが許されませんでした。

「献上唐子」と言われたこの図柄は
朝廷や将軍家の献上品(7人唐子)
藩公の用品又は諸大名への贈り物(5人唐子)、
武士用(3人唐子)

として、区別して使われていました。




透かし彫り灯篭


透かし彫り灯篭(大正製)

その後も良質の陶石を求め探索を続けた三川内陶工は、1712年頃、良質の「天草陶石」を発見し焼成に成功します。

純白の白さを誇る「三川内焼」の「白磁」の完成です。

そして、その「白磁」をベースに、繊細な彫刻で仕上げた「透かし彫り」の飾り香炉など、非常に細かな細工を施した作品も、「三川内焼」の特徴です。

昔の「三川内焼」の作品を、アルバムにしましたので興味のある方はこちら↓からどうぞ。

■ 「三川内焼」古陶アルバム

こうして見ると、『三川内焼』は鍋島藩の「色鍋島」同様に、藩の御用窯として高級品を作り続けてきた基盤があり、その高い技術は、現在も引き継がれています。
その結果、今でも「三川内山」では『染付』の製品を主として製作している「窯元」が数多く残っており、その藍(呉須)の色は、「窯元」個々に特徴を出し個性を出していて、今でも魅力的です。

ただこのように、人の手で1つ1つと丁寧に作り上げていく(「透かし彫り」も含めた)伝統工芸品は、その技術の継承の厳しさに加え、どうしても高価なものになってしまい、今後引き継がれていく伝統工芸の道は、益々厳しいものになってきているように思えます。

そう言った事も含め、現在の『三川内焼』では、業務用食器の生産を主流とする窯元も増えて来ています。




H A S A M I
波 佐 見 焼 の 歴 史



『波佐見』(はさみ)は長崎県の北東に位置する町で、こちらも「三川内」同様に佐賀県との県境、
『有田』と県を跨いでの隣町になります。
(「有田」から見て、「三川内」は西、「波佐見」は南になります)

「やきもの」生産の始まりは、「有田」同様に「陶器(土物)」の生産からでした、
そして、「磁石鉱発見」以来、「波佐見」に点在していた古窯にて「陶器」とともに「陶磁器」の生産もはじまります。
「陶磁器生産」の歴史的背景には、やはり「豊臣秀吉の朝鮮出兵」を機にした朝鮮陶工達の帰化があります、そして政治的背景は、「有田」が「鍋島藩」、「三川内」が「平戸藩」に対し、「波佐見」は「大村藩」でした。
創業期の窯では「陶器」とともに「白磁」「染付」「青磁」の生産が始められ、
1630年代に入ると、本格的に「陶器」生産から「陶磁器」生産へと移行していきます。

三股青磁 三股青磁

そんな中・・・「有田」「三川内」が「色絵」「染付」などの絵模様を描いた製品を主流に生産していったのに対し、「波佐見」では、草花などの文様を彫りだした「青磁」の製品が多く生産されました。

「波佐見(三股)青磁」と呼ばれ、淡いパステル調の黄緑色が特徴で、「伊万里大川内青磁」とはまた違った魅力があります。
(作られた年代で、色合いに違いも見られます)

1650年代に入ると、当時の「大村藩主」も、「鍋島」「平戸」同様に、
「皿山役所」を「三股山」「中尾山」「永尾山」に設置し窯業に対する管理体制を整え、当時「肥前窯業界」で盛んになってきた、「海外への輸出」も盛んに行われるようになります。 (「有田」がオランダなどヨーロッパ向けの輸出が主だったのに対し、「波佐見」は東南アジア向けの輸出が主だったようです)

海外への輸出が盛んだった頃の、「波佐見」を代表する輸出製品に『コンプラ瓶』があります。

コンプラ瓶
コンプラ瓶

コンプラ仲間(ポルトガル語のコンプラドールからきた言葉で仲買の意、略字C.P.Dは日本最初の商標)がオランダ東印度会社を通じて輸出したところから通称「コンプラ瓶」と呼ばれました、
日本の酒(JAPANNSCHZAKY)や、醤油(JAPANSCHZOYA)を入れて輸出されました。そのどっしりとした独特の形はヨーロッパ人の注文によるものと言われています


くらわんか茶碗


くらわんか茶碗

その後、海外への輸出が低調になって来ると、今度は国内向け製品の生産を主流にと移行していきます。
とくに、庶民が買える安いやきものの大量生産に力を入れ、その代表とも言えるのが、『くらわんか茶碗』です。

この様にして、今日の大量生産をベースとした「波佐見焼」の下地が作られました。その後も「波佐見」は、「有田」や「三川内」の「高級路線」とは違い、独自の「万人向け食器」の大量生産に力を入れ、またその結果として、印刷などの技術革新の際にも、いち早くその技術を導入し製品の低価格化を目指していきました。
今日においても、この基本路線は踏襲されていて、今でも大量生産低価格型の窯元が多く残っています。

ただその中で、近年では「物余りな世の中」を背景に「小規模(または小規模化する)」な窯元も増えてきています、しかし、「万人向けの低価格製品作り」という基本姿勢は変わっていないので、小規模化することで「より個性的な製品」が開発され、より魅力的な窯元が増えてきているのも事実です。
以上のようなことから、現在の「波佐見焼」の傾向は、「一般家庭向き食器」や「雑貨」を製作する窯元が主流となっています。





 
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